Who Gives a Thought | Photograph Installation | 2023

“私”が切り取る情報の物理的・時間的唯一性と、それ故に生じる他者との共有し難さをどうしたら身をもって体感できるのか。

あらゆる情報・コンテンツを画面越しに接種するのが当たり前の今、フレームで切り取られるものを”私は漏らさず認識できている・することができる”という誤謬からいかにして脱却するか。

多様性の旗印のもと、新たな概念を生み出してはそれらに対する知識を身につけ理解を深め価値観を時代に即してアップデートしようと慢心しているが、”私は目の前の情報のうちのほんの一部を捉えることしかできないのだ”という視点に立てなければ、受け取る情報の量を増やし解像度を上げてみたところで取りこぼされるものがただ増えていくだけではないのか。

自己反省的なプロセスを経ずに闇雲に浴びる情報を増やしていけば、いつか消化不良に陥いる事態は避けられない。となれば、情報処理の精算性が求められる昨今では、消化に時間のかかるわかりにくい情報はその存在自体が亡き者にされてしまわないだろうか。

誰もが自身の中に、安易に、簡易に言葉にしえないような非論理的な感情、のようなものをもっているはずだ。それらは誰が受け止めてくれるのか。

スライドプロジェクターから投げかけられるイメージの全容を手で探る身体的な鑑賞行為を通して、「知覚されなくても存在するものの痕跡」「見えるものと見えないものの境界」を辿っていく。